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さらに、テレビ番組制作、劇場、芸人養成スクールを手がけ、お笑い芸人のマネジメントでは圧倒的強さを誇っています。
そんな吉本興業について、吉本興業の現在までの歴代社長まとめ・吉本興業の歴代社長の現在までの経歴まとめ・吉本興業の現在までの歴史やエピソードまとめという流れで、詳しくご紹介していきます。
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吉本興業の現在までの歴代社長まとめ
吉本興業は、吉本やよしもとと呼ばれており、大阪府大阪市中央区と東京都新宿区に本社を持ち、マネジメントや番組制作などの様々なグループ会社があるので、吉本興業ホールディングス株式会社が正式名です。
そして、下記のような方々が吉本興業の歴代社長を務めています。
- 吉本せい(1932-48年:16年間)
- 林正之助(1948-63年:15年間・1970-73年:3年間・1986-91年:5年間)
- 林弘高(1963-70年:7年間)
- 橋本鐵彦(1973-77年:4年間)
- 八田竹男(1977-86年:9年間)
- 中邨秀雄(1991-99年:8年間)
- 林裕章(1999-05年:6年間)
- 吉野伊佐男(2005-09年:4年間)
- 大崎洋(2009-19年:10年間)
- 岡本昭彦(2019年-)
参考元:Wikipedia
なお、初代社長の吉本せいさんは、創業者の吉本吉兵衛さんの嫁であり、創業者の姓から吉本という名前となりました。
さらに、林正之助さんは、通算で20年以上も社長を務めていますが、初代社長の吉本せいさんの弟です。
そのため、2000年代前半頃までは、完全に一族経営であったことが分かります。
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吉本興業の歴代社長の現在までの経歴まとめ
下記は、吉本興業の歴代社長の主な経歴の一覧です。
吉本興業創業者であり、2人の弟は「林正之助」さんと「林弘高」さんです。「山崎豊子」さんが、彼女をモデルにした「花のれん」という小説を出版し、NHK朝の連続テレビ小説「わろてんか」など、多くの舞台・映画・ドラマ化をされています。(引用元:Wikipedia)
姉は、「吉本せい」さん、弟は、「林弘高」さんです。多くの芸人を育て上げ、「なんば花月」・「うめだ花月」などの劇場もオープンさせるなど、「吉本興業」を日本最大手の芸能事務所に発展させました。(引用元:Wikipedia)
姉は「吉本せい」さん、兄は「林正之助」さんです。社長業以外にも「太泉映画」を設立し、映画製作を開始、他社との合併を経て、現在の「東映」に発展させました。(引用元:Wikipedia)
東京大学出身であり、「林正之助」さんと知り合ったことがきっかけで、1931年に「吉本興行部」に入社しました。その後、文藝部・宣伝部・映画部を立ち上げ、部長や常務などを経て、1973年に「林正之助」さんの後を次いで社長になりました。(引用元:Wikipedia)
1937年に「吉本興業」に入社、事業部、制作部の部長などを歴任しています。さらに、「吉本興業」に演芸部門を復活させ、「うめだ花月」・「京都花月」・「なんば花月」など演芸場を次々と開設し、今日の「笑いのヨシモト」を築き上げました。(引用元:Wikipedia)
1955年に、「吉本興業」に入社、駆け出し時代は、人気漫才師のマネージャーを務めました。その後、「うめだ花月劇場」の開館、「吉本新喜劇」の立ち上げに尽力し、所属タレントを積極的にテレビに出演させる戦略が実を結び、「お笑いの吉本」の地位を不動にしました。さらに、社長に就任後、東京進出の旗振り役となり、関西ローカルだった吉本を「全国区」に押し上げました。(引用元:Wikipedia)
元会長の「林正之助」さんの娘婿です。1971年に「吉本興業」に入社、要職を歴任し、東京進出の陣頭指揮をとり、漫才ブームの基礎を築きました。さらに、東京・新宿に常設劇場「ルミネtheよしもと」を開設、「M-1グランプリ」の創設に寄与し、「吉本新喜劇」の海外公演などを手がけました。(引用元:Wikipedia)
1978年に「吉本興業」に入社、1980年に上司の「木村政雄」さんと共に東京支社に異動後、漫才ブームの時代を支えました。さらに、無名時代の「ダウンタウン」の兄貴分・マネージャー的存在として業界のイロハを教え、東京進出のきっかけや現在の活躍の基礎を築きました。(引用元:Wikipedia)
1991年に「吉本興業」に入社、2年後に「ダウンタウン」のマネージャーを務め、その他にも大物タレントのマネージャーを経て、「吉本興業」のグループ会社の社長を歴任し、多くの人気番組のプロデューサーを務めました。(引用元:Wikipedia)
上記の歴代社長の経歴より、全ての社長が入社以降、様々な実績を残しています。
現在の吉本興業の「お笑いの総合商社・日本最大の芸能プロ」と言われ、芸能界における絶対的な影響力から「吉本なしでは、番組が作れない」と言われるまでに発展したのだと思います。
ダウンタウンの若手時代を支えた名プロデューサーで吉本興業の会長を務めている大崎洋会長について、経歴がすごい・仰天エピソードまとめ・ダウンタウンとの関係という流れで、ご紹介しています。
人気のお笑い芸人が多く所属する吉本興業の社長を務める岡本昭彦さんについて、吉本興業での経歴が凄い・昔の担当番組まとめ・パワハラ発言の真相という流れで、ご紹介しています。
吉本興業の現在までの歴史とエピソードまとめ
吉本興業は、創業者の姓を取り吉本と名乗っていますが、現在はオーナー経営ではなく、東京・大阪の主要民放局(フジテレビ・日本テレビ・TBS・テレビ朝日など)が主要株主となっています。
なお、2007年9月までは、日本の芸能プロダクションの中で、95年半の最も古い歴史を持っており、その歴史は、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに引き継がれています。
そんな吉本興業の歴史とエピソードまとめについて、ご紹介していきます。 スポンサーリンク
吉本興業の歴史まとめ
吉本興業は、吉本吉兵衛さんと吉本せいさん夫婦が大阪市北区天神橋にあった第二文芸館を買収し、寄席経営を始めた事であり、明治45年の1912年4月1日に創業されました。
そして、1913年1月に現在の大阪市中央区東心斎橋に吉本興行部を設立しています。
しかし、1924年に吉本吉兵衛さんが他界し、吉本せいさんが経営を背負うことになりましたが、2人の弟である林正之助さんと林弘高さんが大阪と東京で活躍しました。
その後、1932年に吉本興業合名会社となり、戦後の1948年に吉本興業株式会社に発足されました。
なお、吉本興業は経営陣の中枢を創業者一族で固める同族企業として出発しており、吉本せいさんと林正之助さんの姉弟、林正之助さんと林弘高さんの兄弟の主導権争いを繰り広げてきました。
現在では、2005年の林裕章さんの他界を受けて、社長の外部からの登用が続いています。
そして、吉本興業といえば、お笑いというイメージがあると思いますが、戦前は巨人軍を他社と共同で設立し、草創期のプロ野球界を支えました。
さらに、戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにし、近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深いことで知られています。
また、元々は全国で寄席・劇場・映画館の経営を手がける興行会社であり、戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称され、東京の二大落語家団体の1つである落語芸術協会の創設者でもあります。
上記のように、寄席経営からスタートした吉本興業は、お笑いだけに固執せず、色々な分野に挑戦し、成功してきたことが分かります。
2019年にはBSデジタル放送への新規参入を果たすなど、常に先進的な取り組みをすることが歴代社長から脈々と受け継がれているのだと思います。 スポンサーリンク
吉本興業のエピソードまとめ
下記は、吉本興業に関する主なエピソードの一覧です。
吉本興業は、興行以外にも多くの事業を展開していることから「総合娯楽産業の中心」という見方があり、就職先としても人気があります。ただ、「社員になれば芸能人に近づける」という動機での志望者もおり、新入社員説明会に冷やかしの参加者が増えたため、有料化したこともあります。
吉本興業は、社員教育は徹底しており、マネージャーはあくまで所属芸人のマネジメントをする人間であって、付き人ではないという考えから、荷物持ち等の雑用はしないようにと厳命している。また、弟子を持っている芸人・タレントに対しても師匠と呼ぶことも禁じています。
タレントの送迎などをせず、どれだけ売れっ子でもマイカーや公共交通機関を使って移動しています。
タレントのギャラは歩合制のため、若手であまり仕事がない芸人の場合、「銀行のATM手数料や交通費がギャラより高い。」といった現象が起こり、若手芸人は、仕事が軌道に乗るまでは、本業の他にアルバイトをする事も多いようです。
上下関係もお笑い事務所の中では厳しいとされており、「年齢が何歳であろうと先に入ったものが先輩」というルールが根底にあり、中学生で吉本興業入りした先輩に対し、成人の後輩が、「○○さん」や「○○兄さん」と呼ばなければならなかったというエピソードが有名です!しかし、時代と共に厳しい上下関係は緩くなってきており、後輩は、先輩に対して敬語を使いますが、「○○さん」や「○○兄さん」と呼ぶくらいです。
上記の主なエピソードより、吉本興業は約1,000人近い所属タレントや社員を抱える大きな会社なので、色々な問題があるとは思いますが、長年に渡り「お笑い=吉本」という概念を崩さず、常に業界トップを守ってきたことは凄いと思います。
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