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メリー喜多川さんは、ジャニーズ帝国の女帝であり、ジャニーズ事務所の元社長であるジャニー喜多川さんの姉です。
なお、若い頃から弟と共にジャニーズ事務所を支えてきましたが、資産家である夫が草創期のジャニーズ事務所をバックアップしていました。
そんなメリー喜多川さんについて、若い頃が美人【顔画像】・夫は資産家でジャニーズを援助・生い立ちや経歴という流れで、詳しくご紹介していきます。
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メリー喜多川さんの若い頃は美人【顔画像】
メリー喜多川さんは、実業家や芸能プロモーターとして、ジャニーズ事務所の副社長、レコード会社「ジャニーズ・エンタテイメント」の社長も務めていました。
上記の画像より、メリー喜多川さんの若い頃は、現在と変わらずショートカットでボーイッシュであり、バリバリのキャリアウーマンという印象があります。
なお、弟であるジャニー喜多川さんの上記の若い頃の画像ですが、姉と似ていると思います。
上記は、父親である喜多川諦道さんの画像であり、母親の画像を見つけることができませんでしたが、メリー喜多川さんも弟のジャニー喜多川さんも全体的に父親に似ていると思います。
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メリー喜多川さんの夫は資産家でジャニーズを援助?
メリー喜多川さんは、1950年代後半にカウンターバー「スポット」を開業しています。
そして、バーの客だった既婚の藤島泰輔さんと内縁関係になり、離婚成立後の1972年に2人は結婚しました。
そんな略奪愛とも言える2人ではありますが、夫の作家仲間の間ではおしどり夫婦として知られていました。
なお、夫である藤島泰輔さんは、東京新聞社に勤務、退社後は小説家や評論家として活躍していました。
また、父親は、日本銀行監事を務めており、上皇明仁と共に大学まで学習院で学ぶなど裕福な家庭で育っています。
さらに、都内の高級マンションや海外の別宅を所有、競走馬の馬主を務めるなどの資産家で長者番付の常連でした。
そして、弟のジャニー喜多川さんが、1962年に芸能事務所「ジャニーズ事務所」を創業すると、メリー喜多川さんもバーを閉店し、経理を担当するようになりました。
ジャニーズ事務所の元社長で生涯プロデューサーだったジャニー喜多川さんについて、伝説エピソードまとめ・記録や功績まとめ・Wikiプロフィールや生い立ちという流れで、ご紹介しています。
また、マスコミ・政財界関係者など自身の知り合いを紹介、ジャニー喜多川さんの業界関係者への人脈拡大を手助けをしたとも言われています。
上記のように、メリー喜多川さんの夫である藤島泰輔さんが、現在のジャニーズ帝国の礎を築いたと言っても過言ではないと思います。 スポンサーリンク
メリー喜多川さんの生い立ちや経歴まとめ
メリー喜多川さんは、1926年12月26日にアメリカ・ロサンゼルスで生まれ、4人兄妹の長女でした。
なお、本名は藤島メリー泰子といい、ハーフではなく日本人です。
そして、1933年に日本に戻りましたが、第二次世界大戦の影響で、子供たちだけで和歌山に疎開するなど、戦争を経験しています。
その後、1947年に再渡米し、ロサンゼルス・シティー・カレッジを卒業、1957年に日本に戻りました。
上記のように、アメリカでの生活が長いため、英語が流暢なことで知られており、通訳などもこなします。
プライベートでは、1966年に長女のジュリー景子さんを出産、1972年に藤島泰輔さんと結婚しました。
弟のジャニー喜多川さんは「将来のアイドルを見つけ、育て、スターの基礎作りをする」という製作担当、タレントのしつけ、会社経営など管理面での実務担当をメリー喜多川さんが担当しています。
なお、メリー喜多川さんの経営手腕のほどは業界でも有名であり「事務所の低迷期を乗り越えられたのも彼女がいたから」と言われています。
また、事務所の方針・決定に従わない所属タレントや不祥事を起こした所属タレントを厳罰にするなど、芸能プロモーターとして厳しい側面もあることで有名です。
上記より、それぞれの分野でカリスマ的な手腕を持つ姉と弟のバランスの良さが、現在のジャニーズ事務所の繁栄を支えていたことが分かりました。
残念ながら、2021年8月14日に死去されており、長女の藤島ジュリー景子さんが今後は社長としての手腕を発揮していくのではないかと思います。
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