スポンサーリンク
冨安健洋選手は、ポジションがディフェンダーにも関わらず、アジアカップの日本人最年少ゴールを果たすなど、そのプレースタイルに注目が集まっています。
なお、プロ入りする前の学生時代から注目されていた選手であり、小学生時代から異常なまでの足の速さだったというエピソードがあります。
そんな冨安健洋選手について、出身中学高校・現在までの経歴まとめ・小学生から現在の足の速さという流れで、詳しくご紹介していきます。
スポンサーリンク
すぐ読める目次はこちら
冨安健洋選手の出身中学高校はどこ?
冨安健洋選手は、小学生の卒業文集に「プロサッカー選手になって、お母さんとお父さんにおうちを建ててあげたい。」という夢を記しており、その夢の実現のため、中学高校とサッカー漬けの日々を送っていました。
出身中学は福岡市立三筑中学校です。
この中学校は、1948年創立の福岡県福岡市博多区三筑にある男女共学の公立中学校です。
ちなみに、卒業生の中でプロサッカー選手は、冨安健洋選手だけなので、同級生や同窓生にとって誇りなのではないかと思います。
出身高校は九州産業大学付属九州高等学校です。
この高校は、1963年創立の福岡県福岡市東区香椎駅東二丁目にある男女共学の私立高等学校です。
なお、九州で最も生徒数の多いマンモス校であり、一時は3,000人を超えていましたが、現在は少子化の影響により、1,900人程度となっています。
そして、卒業生の主なサッカー選手は下記です。
牛之濵拓選手(鹿児島ユナイテッドFC)・田中智大選手(カターレ富山)・崎村祐丞選手(アビスパ福岡)
引用元:Wikipedia
なお、高校3年生の時にプロ契約を結んでおり、アビスパ福岡の史上初となる高校生Jリーガーとなりました。
そして、サッカーに集中するため、通信制高校に転校しているので、九州産業大学付属九州高等学校の卒業生ではないようです。
スポンサーリンク
冨安健洋選手のWikiプロフィール
名前:冨安 健洋(とみやす たけひろ)
愛称:タケ・トミー
生年月日:1998年11月5日
年齢:26歳(2024年時点)
出身地:福岡県福岡市
身長:188cm
体重:84kg
趣味:ゴルフ・料理
利き足:両足
ポジション:DF/MF
所属チーム歴:アビスパ福岡⇒シント=トロイデンVV⇒ボローニャFC⇒アーセナルFC参考元:Wikipedia・冨安健洋インスタグラム
冨安健洋選手の健洋(たけひろ)という名前は「健康で、太平洋のように広い心を持った人間に育ってほしい。」という両親の願いを込めて命名されました。
また、趣味がゴルフと料理ですが、下記のインタビュー内容から判明しました。
日本にいる時にゴルフを始めたんですけれど、こっちに来てからはやってないんですよ。趣味がないって言ってたら先輩から「じゃあ、ゴルフやれよ」って言われてはじめました。
ゴルフは楽しいんですけれど、ゴルフ道具を持ってきてもないんで。料理は趣味になりつつありますね(笑)。
引用元:King Gear
スポンサーリンク
冨安健洋選手の現在までの経歴まとめ
冨安健洋選手は、小学生の頃に三筑キッカーズに所属していました。
そして、2009年に開校したバルセロナスクール福岡校にも在籍しています。
小学6年生になると、ナショナルトレセンに選ばれ、地元では広く知られる存在になりました。
そんな冨安健洋選手の現在までの経歴について、学生時代の経歴まとめ・プロ転向後の経歴まとめという流れで、ご紹介していきます。
冨安健洋選手の学生時代の経歴まとめ
冨安健洋選手は、小学生時代に所属していたバルセロナスクールのコーチより、FCバルセロナに推薦されていました。
しかし、小学生をスペインに連れていくのは難しく、その話は立ち消えとなってしまったそうです。
なお、イバン・パランココーチは、当時のことを下記のように語っています。
バルサスクールでのタケはボランチ中心で、前を向いても、相手を背負ってもいいプレーをしていました。
攻撃面ではチームを動かしたり、自ら前線に上がってシュートまで持ち込むこともでき、守備面も空中戦の強さ、スペースの管理、インターセプトのうまさなど高い能力を備えていました。
バルサには、サイドバックの攻撃参加を重視する哲学があり、彼はその資質を持っていましたから。私は3年間で3人をバルサに推薦しましたが、その1人がタケ。それだけの潜在能力がある選手でした。
引用元:ジュニアサッカーを応援しよう!
そして、中学生からアビスパ福岡の下部組織に入団、ジュニアユース時代は3学年ともキャプテンを務めています。
中学3年生の時に、飛び級でアビスパ福岡のトップチームの練習に参加するようになりました。
その後、2015年5月19日に高校2年生ながら、アビスパ福岡に2種登録されました。
2015年10月の天皇杯の3回戦のFC町田ゼルビア戦で公式戦デビューを果たしています。
ちなみに、アンダー日本代表としても下記の経歴を残しています。
【U-15日本代表】
2013年「ミャンマー遠征」
【U-16日本代表】
2014年「AFC選手権」
【U-17日本代表】
2015年「バツラフ・イェジェク国際ユーストーナメント」
2015年「国際ユーストーナメント in ミンスク」
【U-18日本代表】
2016年「AFC選手権 予選」
2016年「長安フィードカップ」
2016年「Panda Cup」
なお、小学生時代のバルセロナスクールに在籍時、スペイン遠征をした頃から世界を意識するようになっており、その想いが上記のようなすごい経歴となっているのだと思います。
スポンサーリンク
冨安健洋選手のプロ転向後の経歴まとめ
冨安健洋選手は、2016年に高校卒業を待たずに高校3年生の時、アビスパ福岡のトップチームに昇格しています。
FC東京戦でプロデビューを果たすと、ディフェンスラインのレギュラーに定着しました。
2017年3月19日のロアッソ熊本戦でプロ入り初得点を記録しています。
そして、2018年1月8日、ベルギー1部のシント=トロイデンVVに移籍することが発表され、J1リーグの強豪クラブも獲得に興味を示していましたが、強い海外志向により、海外移籍することになりました。
その後、2018年5月13日のロイヤル・アントワープFC戦で初出場を果たしています。
また、2018年7月18日の開幕戦であるサークル・ブルッヘ戦でフル出場、2018年11月25日のRSCアンデルレヒト戦で初得点を記録しました。
なお、ドイツ1部のブレーメンが移籍金600万ユーロ(約8億円)でオファーを出しましたが、シント=トロイデンVVは少なくとも移籍金1000万ユーロ(約13億円)を求めていたため、オファーを断っています。
しかし、2019年7月9日にセリエAのボローニャFCへ移籍、ベスト5やクラブ月間MVPに選ばれる活躍をしました。
そして、2021年8月31日にイングランドのアーセナルFCに移籍することが公式発表され、今後の活躍も期待されています。
上記のように、冨安健洋選手は、夢であった世界での活躍を果たし、高額な移籍金となるほどに、その実力が認められていることが分かりました。
ちなみに、アンダー日本代表・日本代表としての経歴は下記です。
【U-19日本代表】
2016年「バーレーンカップ」
2016年「Panda Cup」
2016年「AFC選手権」
【U-20日本代表】
2017年「FIFAワールドカップ」
【U-21日本代表】
2018年「トゥーロン国際大会」
【U-24日本代表】
2021年「東京オリンピック」
【日本代表】
2018年「キリンチャレンジカップ」
2019年「AFCアジアカップ」
2019年「コパ・アメリカ」
2022年「キリンカップサッカー」
2022年「FIFAワールドカップ」
AFC U-19選手権では、安定したディフェンスで初優勝に貢献、2018年のキリンチャレンジカップでは、日本代表に初招集され、パナマ戦で初出場を果たしました。
なお、10代での日本代表デビューは、2012年の宮市亮選手以来であり、センターバックの選手としては史上初でした。
その後、2019年のAFCアジアカップでも日本代表メンバーに選出、トルクメニスタン戦でスタメン出場、大会最年少での出場を飾りました。
さらに、サウジアラビア戦では、堂安律選手の20歳207日という記録を上回るアジアカップの日本人最年少ゴール(20歳77日)を記録しています。
スポンサーリンク
冨安健洋選手は小学生から現在の足の速さだった?
小学生の時の冨安健洋選手は、小学生の頃に所属した三筑キッカーズの総監督が「ドリブルさせたら、恐らく福岡県で彼に追いつける足を持っている子はいなかった。恐ろしいくらい速かった。」と語るほどの足が速さだったようです。
そんな小学生から足が速かった冨安健洋選手について、足の速さは母親譲り・小学生時代のエピソードまとめという流れで、ご紹介していきます。
冨安健洋選手の足の速さは母親譲り?
冨安健洋選手の家族構成は、父親・母親・2人の姉の5人家族です。
家族に関する詳しい情報はそれほどありませんが、父親は野球と剣道をしていました。
そして、母親の富安佳代子(とみやすかよこ)さんは、昔は陸上選手していました。
そのため、息子である冨安健洋選手の足の速さは、母親のDNAを引き継いでいると思われます。
上記のように、父親も母親もアスリート経験者であるため、抜群の運動センスと足の速さは両親のDNAから持って生まれたものだと思います。
なお、両親は「教育方針というのは特にありませんでしたが、基本的に自主性に任せて、善悪の判断だけは間違えないように見守ったつもりです。」と語っており、ゆったりとした気持ちで育てていたようです。
また、冨安健洋選手は、最初は2人の姉と同じく水泳を習おうと思っていましたが、あごを縫う怪我をしたことでサッカーと出会いました。
なお、その時のことをインタビューで下記のように語っています。
怪我で水泳ができなくなり、代わりにサッカー教室の体験に行ったんです。そしたらボールを蹴るのが楽しくなって、本格的に始めることになりました。1学年10人もいない少人数練習でしたけど、赤池先生という指導者に基本的なことを教わりました。
引用元:ジュニアサッカーを応援しよう!
その後、三筑キッカーズに加入することになり、その才能を開花させていくことになりました。
スポンサーリンク
冨安健洋選手の小学生時代のエピソードまとめ
冨安健洋選手は、幼稚園のマラソン大会で3年連続優勝というぶっちぎりの強さを誇り、足の速さがずば抜けていました。
また、三筑キッカーズは、火・木・金曜日と週末の週5日の活動、練習の中で素走りも多く取り入れていましたが、冨安健洋選手はいつも嬉々として走っていました。
さらに、夏休みは1日10時間ほど練習、サッカー漬けの毎日だったようです。
なお、冨安健洋選手は、小学生時代の両親の教育方針について、下記のように語っています。
両親は僕のことはほったらかしでしたし、「勉強しろ」とも言われなかった。遠征の送り迎えやお弁当などのサポートもしてくれましたし、自分がやりたいようにさせてくれたので、ホントに楽でした。
引用元:ジュニアサッカーを応援しよう!
また、冨安健洋選手にとって「プレー中も全てにおいて100%」というのが少年時代からのモットーです。
そのことに関して、小学生時代のコーチは下記のように語っています。
タケは単に走れるだけじゃなくていつも全力。手を抜いたのを一度も見たことがないですね。試合中でも自分でポジションを修正したり、考えながら自主的にやっていたんで、僕がガミガミ怒るようなことは全くありませんでした。
引用元:ジュニアサッカーを応援しよう!
また、中学時代のコーチも下記のように語っています。
最初に驚かされたのは、ひたむきにチームの仕事をすること。ボールや練習用具、水や氷の準備などいろいろやることがありますけど、タケはどんな時もブレずに動く。チームに何が必要かを考えて率先して行動するんです。コツコツやる選手はプロになれるという見本を見せてくれていて、指導する側としては本当に楽でした。
引用元:ジュニアサッカーを応援しよう!
上記のエピソードより、冨安健洋選手が、いかに足が速かったのか、サッカーが好きなのか、何事にも全力で取り組む人なのかということが分かりました。
そんな小学生時代からその才能を開花させてきた冨安健洋選手の海外のチーム・日本代表としての活躍を楽しみに、引き続き応援していきます。
スポンサーリンク